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代表ストーリー

屋根瓦に触れ合ってきた幼少時代

私の生まれは彦根の高宮で、元々父親が親戚の屋根工事屋で瓦工事の担当をしていました。

父親は終戦直後くらいに中学生だったので、そこから50年以上屋根工事業一筋。もちろん屋根工事のいいところも知っていたでしょうが、辛さもよく知っていたので、子どもにはそういうことをさせたくない、強制させたくないという思いもあったようです。休みはありませんし、基本天気商売なので。昔は、建材というものは重くてかさばるものというのが普通でしたし、材木は山で切り倒して川で流す。

八幡瓦をつくって船に乗せて琵琶湖で運搬。トラック輸送が全盛期になる前、昭和30年代くらいはそんな時代だったそうです。


屋根瓦に携わりはじめることに。

そして、ちょうど職人の息子も学校に行かせようという時代が始まり、私は文系の大学を出て働いていたんですが、20代半ばの頃に父親から後継者もいないということで「よかったらどうだ」という話をされました。これも全く無理強いではありませんでした。

ただ私の中にも、現場仕事をやるなら年が行ってからではできないなという思いがありました。これは後でわかったことですが、20代でこの業種だと日中は現場のお手伝い、夜は見積もりなどのデスクワークをすることになるんです。早い方だと高校卒業してすぐ就かれているので、20代半ばでのスタートは決して早いほうだとは言えないんですね。ですから人の倍、とまでは言いませんが、1.5倍はもうがむしゃらに働きました。当時は現場も多く、今日仕事行って何しようということがなかったことも幸いでした。



転機となったある出来事

転機となったのは父親の入院。何度か入退院を繰り返すようになり…その当時はうちは単なる一営業所でしたが、私が背負うとまではいかなくてもやはり自分がなんとかせな、と思いはじめ。

そうなるともう、朝から晩までひっきりなしで働くことになり、前に働いていた会社に増員をお願いしたりもしましたね。平成12、3年くらいに起きた平板瓦ブームもあり、今月分のホワイトボードがぎっしり埋まるくらいの仕事量をこなしていました。

今では屋根朋を創設して現場監督をメインに創業者として日々瓦と向き合っています。

この未来を予想できていたかというと、なかなか難しいところですがただこの仕事に勤めたからこそ培った経験やお客様の感謝の声は何にも代えがたいものとなっています。

彦根、そして滋賀県の屋根瓦を守るためにもこれからも屋根朋は頑張ってまいりますので、皆さんよろしくお願い致します。